なぜ造幣局は川沿いにあるのか
日本の造幣局は大阪にある
場所でいうと大阪市北区天満1丁目にある
この黒丸をつけたところ
3階建ての堂々とした風格の建物である
ここで日本で使用される硬貨が製造される
1871年(明治4年)4月4日に創業であるが、造幣局建設は1868年(明治元年)11月に建築工事が開始された。明治という元号開始が1868年10月23日なので、わずか新時代幕開けから2週間足らずで建築開始となっている。
いかに明治新政府が造幣局建設を重要視しており、完成を急いでいたかがわかる。
開国後の幕末では外国貨幣(メキシコドル)が流入し、金貨幣が海外に流出したらしい。また江戸時代は幕藩体制であったため各種藩札があり、また混乱に乗じて偽造貨幣も流通していたとのこと。植民地化を防ぐために富国強兵を行う必要がある。そのために貨幣制度の確立は国の最重要課題の一つであったのだろう。
1867年11月に徳川慶喜が京都二条城で大政奉還を行い、同年12月に王政復古の大号令が下った。造幣局ホームページの「造幣局150年のあゆみ」によると、翌1868年に造幣工場の建設が決定、大坂天満にある、旧川崎村の旧幕府御破損奉行役所(大阪城の管理を行っていたところ)の材木置き場跡地が建設場所に決められたとのことである。
この地図をみると、天満付近はすでに市街地化していたが、大川(旧淀川)対岸の都島区はまだ農村地帯であったことがわかる。
それにしてもなぜ東京ではなく、大阪で建設されたのか。造幣局HPには以下のように記されている。
「造幣局が大阪に設置された理由は必ずしも明らかではないが、当時の大坂遷都論がその決定の背景にあったことは確かなようである。「大隈候昔日課」において、大隈重信は「造幣局を大阪に作ったのは当時大坂遷都の誰が大久保(利通)によってていしゅつされていた際であったからである」と語ったとされている。また創業式に招かれた英国公使パークスは、後日本国に提出した報告書の中で、大坂の銀行家(両替商)に意向を尊重したためと記している。なお「東京の治安が未だ確立していなかったため」との説もあるが、その根拠は脆弱である」
大阪建設の理由ははっきりしていない。当時の権力者の一存でそうなったと考えるしかないだろう。
そうすると、大阪のこの場所になぜ建築されたのかが気になる。そしてこれには理由があると考える・
それは、「水害に比較的強い土地であった」からなのではないか。
大阪市内で土地の標高が高くて、しっかりした地盤は上町台地である。そして上町台地の先にある天満の土地も「天満砂堆」という、砂が堆積した微高地である。
(参照:三井住友トラスト不動産トップページ)
あと水害に強い理由は微高地のほかに、旧淀川の線形にもあったと考える。
もう一回現在の地図を示してみる
ここで注目したいのは、大川「旧淀川」の線形である
このあたりの大川は、都島区側は外側、北区天満側は内側となっている。
こういう川の線形だと、台風などの洪水の際はどうなるだろうか?
おそらくこうなるだろう。
水流は遠心力で、外側の都島区側に流れるだろう。
言い換えると、内側の北区天満側は洪水から免れる可能性があるということである。
(参照:大阪市ホームページ)
造幣局あたりは浸水地域に入っていない。
しかし1885年(明治18年)の淀川大水害の際にはさすがに造幣局も浸水被害を受けたとのこと。翌年まで復旧作業が続けられたと、造幣局HPに記載されている。
しかし淀川河口に位置した大阪の街の中で、比較的洪水に強い地域に立地されたことは間違いないだろう。
重要なものがそこに建つには必ず理由があると思う。
今後も建築物について、地政学についてブログにどんどんと載せていければと思っている。